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2010年 08月 04日
2010年 07月 31日
TV番組の「徹子の部屋」を見ていたら、ちょうど井上さひしが出ていて、「文章を書くという、いかがわしいことを仕事とし生きている私のような人間は・・・・・・」というようなことを言ったときに、黒柳徹子が「そんないかがわしいなんてことはないでしょう」と言い返すと、井上ひさしが「昔から、書いたものとて信用できぬ、筆には狸の毛が混じるといって、文章は筆で書きますから、うそを書くわけではないんだけれど、どうしてもうそが混じるんですよ」と話していました。
私は子どものころ作文が苦手で、自分の気持ちを文章にすることがなかなか出来ず、作文が上手な友人がうらやましく思え、いつか自分の思っていることを文章に書ける人になりたいとずっと思ってきました。「作文が上手になるためにはいっぱい本を読めばいい」とか「毎日日記を書けばいい」などと言われたこともありますが、どれもきちんとできずに終わってきました。それでも塾のお知らせなど20年以上書いてきて少しずつ書けるようになったと感じられるようになって来ましたが、同時に書き終わったとたん何か違うと感じることも多くなったような気がしています。今でも、書いたあと必ず妻に読んでもらって、自分以外の人はどう感じるのか確認しています。ですから井上ひさしが「文章にはどうしてもうそが入る」といったとき「なるほど、文章とはそういうものなのか」と納得したのです。でも、その理由が「筆には狸の毛が入っている」というのは狸にとても失礼な言い方ですね。狸はひとつもうそをついていないのですから。 TVを見た後で、この話しは落語に出てくるというので早速インターネットで調べてみました。「落語に出てくる川柳・狂歌・ことわざ」というページがすぐ出てきて、そこには圓生が落語のなかで使っているものばかり200以上が載っていていました。私は落語をほとんど聞かないで育ってきたし今でも聞くことはありません。それでも「居候、3杯目にはそっと出し」などのように少しだけ聞いたことがあるという言葉も載っていました。私が子どものころは娯楽がラジオしかない生活で、よくラジオからは落語が流れていたような気がします。ですから、ラジオから流れてきた言葉が私にも残っているのかもしれません。でもほとんどの言葉を知りませんでした。きっと私の父の世代の人たちにとってはみなよく知っている言葉で、私など「えっ君は知らないの?若いからね!」とか、「こんなことも知らないで、塾なんかやってるね!」と侮蔑の言葉を浴びせられるような気がします。 もしそう言われたら、私はきっと「もっと落語を聞かなければ!」「どんな話しがあるのか調べなければ!」と考え、勉強を始めるでしょう。でも今の社会では誰も私にそんなことを言いませんから、私は「へぇっー」と感心し、面白がるだけで済んでいます。世の中の常識とはきっとこういうものだろう、常識として知っていることと知らないことの違いや、言葉や文章の持つ(含む)意味などいろいろ考えさせられる井上ひさしと黒柳徹子の会話でした。 2010年 06月 29日
高校3年生になったり、高卒認定試験に合格の見通しが持てるようになった私の周りの若者たちのほとんどは、「大学に向かってどう準備したらよいか」という相談を私にします。相談に来る若者の半分ぐらいの人は「○○学部に行きたいと思っています」と応えますが、「まだ・・・どんなところに行けばよいのかわかりません」「自分がどんなところが向いているのかわからない」「自分がしたいことがまだわからないんです」など私がどう答えたらよいかわからない状態の若者も半数ほどいます。
「○○学部に行きたい」と応える若者でも、よく話しをしてみると「はっきり言ってよくわからないけれどそこが良いといわれたんです」「なんとなくいい感じだから」みたいな感じでほとんどわからない状態(子どものころから聞いたことがある大学が多い)という若者もいるので、言葉通り目標がはっきりしているのは3分の一程度で、大学に行くことがどういうことで、準備に何が必要なのかよくわからないまま相談が始まります。 せっかく本人が「大学に向かって勉強をする」と言い出したのですから、私は大学のことよりまず勉強をしようと思った気持ちを第一に考えて話すように心がけているのですが、今の大学受験事情は試験方法があまりにも多様化し、内容レベルもそれぞれなので、目標によっては必要のない準備もたくさん出てくるので困ってしまいます。逆にその目標なら「四当五落」とは言わないけれど昔ながらの受験生活をしなければならないと言わざるを得ないこともあります。 1951生まれの私の時代と違い今の社会は「就職するのが大変(無理)だから大学に行こうと思います」と高校生が言い出すようになりました。その言葉を聴いたとき私は一瞬「えっ!」と驚きましたが、次の瞬間には「うん、そうだよね。就職はなかなか出来ない時代だよね」と納得してしまいます。「お金がないから就職しなければいけない」という時代でも。「勉強したいから大学に行こう」「いいところに就職するために大学に行こう」という時代でもなくなりました。大学に行くにも就職をするにも「なぜ?」「どうしたいの?」と若者たちに問い返せない社会になっています。 そして若者たちは「なぜ?と訊かれても、そうするしかないんでしょ」としか言いようがないんだと思います。そこで私は「したいわけでも、する必要もないのなら、何もしないという方法もあるよ」と言うと「いや、何もしないのはまずいでしょ!」と即座に答えが返ってきます。この感じが今の社会を全て表現しているように私には感じています。「何かしないといけないから、何かをする」目標や意味はもちろん、自分の気持ちや意志なども特に問う必要はないのです。私は「何かをして、その若者が元気になるかどうか?」を一番大切に考えるようにしています。 2010年 06月 01日
「こたえる」とヒラかなで書いたり、音で表現すると区別がつかないのだが、聞かれたことの内容にこたえることが「答える」であり、聞かれたことに対して反応していることを「応える」と私は思っている。最近ふと気がつくと、いろいろな場面で「答えず」に「応えている」人が多くなったような気がする。
先日ある会議の席で、今の若者たちの物言いのなかで「単位が送ってくる」という言い方が普通になっていると言う話を聞いた。数年前までは「単位はとるもので、取れた、取れない」と言った表現が普通であったが、今は「単位送ってきた?」と友だちと話しをする若者が多いらしい。その意味は、自分は大学が言うことはきちんとした。レポートは出したし、試験も受けた。もちろん授業料だってきちんと払った。それなのに「単位が送られてこなかった!」という感じで話しをするというのだ。 単位が送られてこなかった学生は、「自分は言われたことはすべてやったのに・・・・・なぜ思ったとおりの結果が出ないの?」といった気持ちになるらしい。単位(結果)は、言われたことを全てやれば取得できるものという考えがいつの間にか学生たちの普通の考えになったと言うことである。本来『単位』とは、学んだことをきちんとマスターしたときに与えられるものであった。だから修得という言葉が使われていたはずである。それがいつのころからか、課題を提出したら取得できるものと考えられるようになっている。 「学んだことを修得し、身についたかどうかを教師から認めてもらう」ということが単位の修得なのか、「課題をこなしたと認定されればよしとされる」ことが単位の取得なのか、授業に出席したことを認めることが単位を認めることになるのか、どれが正しいのか私にはわからない。 いつの間にか『単位をとる』ということの意味が学校や教師・生徒との関係によってさまざまあるようになっているのだ。だから、きちんと学びそのことを身につけることを前提に考えている人が、「課題をこなせばよし」と考える人と向き合うと、『学ぶ気が無い人』『言われたことに対しただ反応しているだけで少しも考えない人』に見えてくる。私のいる現場では『単位』の認定と言うことは無いのでこのようなことを少しも気にせずやってきたのだけれど、最近『理系に進みたい』とか『国立大学に進みたい』ので数学を教えてくださいといってくる生徒のなかに、本当に数学を学ぼうとしているの?と疑いたくなるケースが増えている。 そんな生徒たちに共通しているのが『これをやればいいんですよね』『この問題が解ければいいんですよね』『公式を覚えればいいんですよね』など、問題を本当に解きたいと思っているわけではなく、『言われたことだけはやります』と投げやりな感じの言い方をするのだ。「理系の大学に進む」とか「国立大学に進みたい」と言われたとき、越えなければいけない数学のハードルは高いので、私はそれなりの覚悟を生徒に求めます。ですから、基本となる数学の単語や規則は覚えてもらわないと、何も始められないと考えています。 しかし言葉や規則・公式をなかなか覚えようとしないように見え、『こんな感じ』『あんな感じ』と説明したり、数学の規則より自分の感じたこと・思ったことを優先して話しをする生徒が増えたように感じるのです。ですから、自分の解法・そう考えた根拠を聞いても説明は出来ず『そう思いました』『知っていました』という会話になります。それでもまだ問題を解こうという姿勢があるうちは、それなりに会話は成立してゆきますが、私が考えつかない発想の生徒に出会うとき、全く会話が成り立たなくなります。こんなときの会話は『何を聞かれているのか理解しない』まま『何かを言われたから返事をしなければいけない』ただそれだけで意味の通じない会話がしばらく続いているのです。でもそれが学校で身につけてきた彼らの教師との会話のノウ・ハウであり、教師を怒らせない生徒としてのむ最低のノウ・ハウのように見えることもあります。 しかも、生徒自身がわからないことや、教師に聞きたいことを言語化できないという問題もそこにはあります。決して生徒の姿勢・覚悟だけの問題と言えないテーマがあります。そこでは教師が生徒の疑問・気持ち・迷いなどなどをどれだけ理解しようとするかという教師の姿勢が問われます。つまり教師のほうも生徒の質問に『応える』のではなく『答える』のだという覚悟が必要になるのです。どうしてこんなことを言うのかな?とゆっくり耳と心を傾けて生徒の話を聞いていると、「当たらずとも遠からず」的に見えてきたり、伝わってくるものがあります。結局『答える』のも『応える』どちらも会話のスタートでしかないと感じるこのごろです。 2010年 05月 05日
「この問題がわからないのですが?」と私に質問する生徒が何人もいます。みな同じ言葉を使っているのだけれどその内容は一人ひとり違います。まず「どの問題?」と私は聞き、そして「君の答案はどれ」と聞くと、ほとんどの生徒は白紙のノートを見せます。白紙のノートからは、この問題の意味がわからないのか、どう考えたらよいか(方針)がわからないのか、答えを出したけれど解答と違っているのか、何も伝わってきません。ですから私は一つ一つ確認するために質問します。すると一人ひとりいろいろなことが伝わってきます。多くの場合は、解説を聞きたいのではなく答えを知りたいだけ。いろいろな公式があるけれどどの公式を使ったらよいのか知りたい。解答を読んでみたけれどどうしてそうなるのかわからない。などです。中にはただ単純に計算の仕方・経過がわからない場合もあります。 このような場合はあと少しで、自分の疑問・事情を説明できる状態です。本当に(?)「わかんない!」と感じているときは、全てがわからないために、何をどう質問したらよいのかわからないと言えます。世の中の教科書・参考書どれを取ってみてもわかっている人が書いていますから、わかっている人にわかるように書かれています。わかっている人にはわからない人の気持ちは想像するだけですから、わからない人にきちんとわかるように書くことは出来ない(とても難しい)のです。 それなのに教師たちは「文章をちゃんと読みなさい!」「読解力が足りないね!」など生徒をさらに追い詰める言葉をたくさん言ってきたと感じています。読めばわかるのならおそらくわざわざ質問しには来ないのです。質問しにきたと言うことはまず今私に質問する気持ちがあることだけは確かですし、私とのコミュニケーションを求めていることだけは確かなのです。それなのに「この問題がわからないのですが?」という言葉に反応しすぎてしまうと、話しをすればするほど生徒の気持ちとずれてしまい。コミュニケーション断絶の状態になってしまいどちらも不愉快な気分になってしまうことがあります。 以前正負の数の計算で「300万円の借金をかかえた男が、500万円貯金していた女と結婚し、財産を共有すると財産は200万円となる」という文章で先に進めなくなった生徒がいました。借金を-300、貯金を+500と表すことは出来ているのですがどうして財産を共有すると+200となるのか不思議がっています。私は(-300)+(+500)=+200となることの説明をするのですがその生徒の顔はますます不思議がるのです。私はギブアップしかけたのですがもう一度「何がそんなに不思議なの?」と聞いてみました。すると「どうして結婚すると財産は共有することになるのですか?」とその生徒は質問するのです。私は『目から鱗』でした。 しかし、話しをしていると本当はその問題について聞いているのではなく、大学には行きたいけれどこんな勉強はしたくないと思っている。いや、本当に自分は大学に行きたいと思っているのかさえよくわからないのですと一生懸命伝えているということもあります。このような時、話しは数学から離れさまざまな事柄に広がって行きます。同時に彼らが抱えるテーマが垣間見えてきます。これまでの教育の中で考えてきたこと・親・家庭とのすれ違い、自画像と現実の自分とのずれなど、これまた様々です。 「この問題がわからないのですが?」という言葉の背景にある意味は、本人も意識せずに表現していることがたくさんあります。そしてさらに、自分が何についてわからないかがわからないまま質問をしている場合があるものです。でもこれって生徒と教師の会話の基本なんだと思います。
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